5月5日は日本では“子供の日”として有名ですね。
子供の日は、別名“端午(たんご)の節句”と呼びます。
なぜ、端午の節句と呼ぶのか?
今回は、端午の節句の起源(由来)について調べ、わかりやすくまとめてみました。
皆様の参考になれば幸いです。
■端午の節句の起源(由来)
端午の節句の起源は、他の節句と同じように古代中国にあります。
古代中国では、5月は季節の変わり目の月という認識でした。
変わり目の月ということで、
さまざまな変化が起こる要注意の月
という見方をされていました。
そこで、当時の中国人たちは、邪気を祓って災厄を免れるために厄払いの行事を盛んに行ったそうです。
その行事が行われた日が、5月の最初の午(うま)の日でした。
端午の端には“最初”という意味があり、よって、端午とは5月の最初の午の日ということになります。
つまり、端午の節句は、
- 5月の最初の午の日に厄払いの行事をすること
という意味になります。
以上が、端午の節句の起源(由来)です。
ちなみに、端午の節句が、5月5日(こどもの日)として定着した理由については、こちらの記事をご覧ください。
■日本への伝来と変化
端午の節句が日本に伝わった時代は、厳密には定かではありません。
しかし、奈良時代くらいから、女性のお祭り的な行事として広まっていったと言われています。
その行事とは、ズバリ、
- 早乙女(さおとめ)の田植え
です。
早乙女とは、清らかな若い女性のこと。
- 清らかで若い女性たちが田植えをすることに神聖な意味合いがある。
と考えられていたようで、
早乙女たちによる神聖な田植え行為で、土地の厄払いと豊作を願っていたのではないかと考えれています。
そんな行事が、奈良時代~平安後期まで続いていきました。
そして、鎌倉時代になると、端午の節句の意味が激変します。
何故なら、鎌倉時代は武士が主流の時代。
言い方を変えれば、武士=男子という感覚が広まった時代です。
その頃から、端午の節句は武士=男子の意味を持つ行事に変わります。
その行事の一つとして、菖蒲(しょうぶ)を摘んで薬草として使ったり、菖蒲酒にして飲んだそうです。
このことから、端午の節句を別名で、菖蒲の節句とも言うことがあるのです。
■端午の節句に五月人形を飾る理由
端午の節句で、鎧兜を着た五月人形を飾る理由は、端午の節句を菖蒲の節句とも呼ぶことに大いに関係があります。
それは、
- 菖蒲の節句の“菖蒲”が、尚武(しょうぶ)に通ずる。
と語呂合わせによる縁起担ぎが、武家社会で重んじられたからです。
尚武とは、武道や武勇を重んじること。
それ故に、昔の武家社会で好まれて、鎧兜を飾って祝うという習慣になったというワケですね。
語呂合わせで物事を決める
というのが、昔の日本は多かったみたいですね。(笑)
また、昔の武家社会では、
「武に通ずることは立身出世に繋がる」
とされていました。
なので、自分の家の男の子の立身出世を願う意味で、鎧兜を飾ることが行事として定着したのです。
その習慣が一般に広まったというワケですね。
しかし、現在では形は鎧兜ではなく、鎧兜のミニチュアの人形に変わっています。
ではなぜ、鎧兜が人形に変わったのか?
それには、以下の3つの理由があります。
- 重い鎧兜を蔵から持ち出して飾るのは一苦労だった。
- 鎧兜を一式持っていたのは、名のある武将か大名のみ。
- 鎧兜一式は非常に高価な代物で、下級の武士にはとても買えなかった。
以上の、極めて現実的な理由から、
- 鎧兜を人形にしてしまえば準備するのは遥かに簡単♪
ということで、鎧兜から人形に変わったのです。
鎧兜が高くて買えなくとも、人形なら何とかなったのです。
それに、人形用の鎧兜なら、布や木でも良いワケです。
見た目だけなんで。(笑)
そういうワケで、端午の節句には鎧兜の代わりに人形を飾るようになったのです。
それが現代にまで受け継がれているワケですね。
今の五月人形が鎧兜をしているのは、本物の鎧兜を飾っていた時の名残なのです。
■まとめ
- 端午の節句の起源(由来)は、
古代中国の5月の厄払いの行事。
- 端午とは5月の最初の午(うま)の日のこと。
- 端午の節句が日本に伝わったのは奈良時代以前。
- 奈良時代から平安時代にかけては、
端午の節句は女性の行事(早乙女が行う田植え)だった。
- 鎌倉時代に入ると、
鎧兜一式を飾る武家の行事へと変化した。
- 鎧兜一式は、高級で重くてかさばるため、
経済的・物理的な意味で準備そのものが面倒。
- やがて、鎧兜一式の代わりに、
見た目を似せた人形を飾るようになった。
(五月人形が鎧兜を着ているのはそのため。)
以上、こんなところですね。
なにはともあれ、現代日本の端午の節句は子供の日。
特に男の子に対しては、優しく接してあげてくださいね♪
では、今回はこの辺で。
■関連項目