12月14日は「討ち入りの日」です。
ここで言う討ち入りとは、かの有名な時代劇作品「忠臣蔵」にもなった、赤穂事件での討ち入りのことです。
忠臣蔵討ち入りの日・四十七士討ち入りの日・忠臣蔵の日とも呼ばれています。
時は1702年(元禄15年)12月14日午前3時頃、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけ よしたか)率いる赤穂浪士47名(いわゆる四十七士)が、吉良上野介邸に討ち入りし、首を取って、泉岳寺にある亡き主君の浅野内匠頭の墓前に添えたという史実です。
ドラマや映画などの忠臣蔵は、ストーリーや人物設定が脚色されている創作なので、史実と異なる点もありますが、大まかなエピソードは史実どおりだそうです。
ちなみに、「討ち入りの日」は日本記念日協会には認定されていません※が、サイト内で記載・紹介されています。
(※2021年12月10日現在)
■実は動機不明
浅野内匠頭が、江戸城松之大廊下(まつのおおろうか)で吉良上野介を斬りつけた動機については不明なままだそうです。
故に、様々な憶測が飛び交い、ドラマや映画・舞台などの「忠臣蔵」で語られる刃傷沙汰の動機は「恐らくこんな感じだったんだろう。」と、脚色されたものだそうです。
その脚色による設定では、
「吉良上野介から度重なる嫌がらせを受けていた浅野内匠頭は、松の廊下で悪口を言われたため、ついにブチ切れて刃傷沙汰を起こした。」
というのが一般的となっています。
吉良上野介の言い分では、「浅野内匠頭が乱心した」ということでしたが、史実では「乱心ではない」ときっぱりと浅野本人が否定していることから、幕府側もそれを認めていたそうです。
■赤穂浪士が仇討ちを決心した理由
浅野内匠頭は切腹させられ、赤穂藩は改易(領地没収&お家断絶)という非常に重い処分だったが、吉良上野介は事実上のお咎めなしだったため、亡き主君の無念を晴らすために仇討ちを決めたそうです。
そもそも、浅野内匠頭の処分がこんなに重くなった理由は、当時の将軍・徳川綱吉を怒らせてしまったからだそうです。
朝廷からの勅使饗応役であった、浅野内匠頭が事を起こしたこと。
(吉良上野介は儀式の指南役だった。)
刃傷沙汰があった場所は、江戸城内の美々しい「松之大廊下」であったこと。
(流血で汚された。)
また、刃傷沙汰があった当日は、朝廷との正月年賀の儀礼の最終日であり、幕府にとっては重大な〆の日でもありました。
そのため、幕府にとっては「面目を潰された」ということになったため、余計に綱吉は怒ったそうです。
■どうやって討ち入りを成功させたのか?
赤穂浪士が討ち入りを成功させた主な理由は以下のとおりです。
- 表門と裏門の二手の部隊に分かれていた。
(逃がさないようにするため。) - 事前に、吉良の家臣たちが住んでいた長屋(吉良邸の近くにあった)の戸口を鎹で打ち付けて出られなくしていた。
(家臣たちがすぐに来られないようにした。) - 裏門突入後に「火事だ」と叫んで吉良邸の家臣たちを混乱させた。
(パニックを起こさせるため。) - 討ち入りに行く道中で梯子を手に入れていた。
(これで壁を乗り越えて表門の閂を抜いた。)
時代劇の「忠臣蔵」では、討ち入り時の堀部安兵衛などの戦いの方に焦点が向きがちですが、実際には事前の用意周到さこそが討ち入りの成功のカギとなっていたのです。
■その後の四十七士は?
討ち入りを成功させた四十七士のうち、46名は江戸幕府の命により切腹しました。
彼らの墓は、主君の墓がある泉岳寺にあります。
残りの1名の寺坂吉右衛門は、赤穂浪士たちが討ち入り後に泉岳寺に向かう途中で行方不明になりました。
その結果、切腹を免れたために生き延び、83歳まで生きたそうです。
(どこでどう暮らしていたのか、詳細は不明です。)
ちなみに、泉岳寺では、現在も毎年討ち入りの日に義士祭というお祭りを開催しています。
お祭りでは、旧吉良上野介邸から泉岳寺まで、赤穂浪士に扮した人たちがパレードを行うイベントが毎年恒例となっています。
こんなところですね。
忠臣蔵は、子供のころからチラホラ見たことがある有名な時代劇ですね。
忠臣蔵のドラマの中では、俳優の木村拓哉さんが堀部安兵衛を演じた「忠臣蔵1/47」(2001年放送)や、名俳優の田村正和さんが大石内蔵助を演じた「忠臣蔵~その男、大石内蔵助」が記憶にあります。
どちらも懐かしい時代劇ドラマでした。
再放送があったら、また見てみたいですね。
では、今回はこの辺で。
■関連項目