※上の写真は小林一茶の「おらが春」のタイトルに引用された句が書かれた「おらが春」のページ。
■一茶忌ってどんな日?
一茶忌とは、高名な江戸時代後期の俳人・小林一茶の命日にちなんだ記念日です。
一茶の命日は、陰暦の文政11月19日。
現代のグレゴリオ暦に換算すると、1828年1月5日となりますが、陰暦の命日をそのまま現代の暦に当てはめています。
この日は、小林一茶を偲んで、日本各地で俳句の行事やイベントなどが行われます。
それらの行事のことも「一茶忌」と呼びます。
◆小林一茶とは?
小林一茶は、教科書にも出るほどの高名な俳人で、代表作に「おらが春」「父の終焉日記」「七番日記」があります。
家族関係に関しては、とても不幸な生涯を送ったと言われているそうです。
その辛い人生故か、人々の心に刺さる、もの哀しい俳句を詠むことも多かったそうです。
特に、「おらが春」に収録されている「露の世は露の世ながらさりながら」は、幼くして他界した愛するわが子を偲んで詠んだ句であり、多くの人たちの涙を誘ったそうです。
■提唱・制定者は?
一茶忌の制定者は不明です。
■日付の理由は?
日付の理由は、前述のとおりです。
■日本記念日協会に登録されているの?
一茶忌は、日本記念日協会に認定・登録されていません。
■小林一茶に関する情報など
- 生誕:宝暦13年5月5日(1763年6月15日)
北信濃の柏原生まれ。 - 一茶が幼いころに実母が早世。
- 継母との関係は最悪だった。
- 15歳で江戸に奉公に出され、以後、10年間は音信不通だった。
- 俳人としての記録が出始めたのは25歳ごろ。
- 俳諧の入門先は葛飾派。
(松尾芭蕉の影響を受けた芭蕉の友人が作った派閥。) - 27歳の時、東北地方へ俳句の修行の旅に出た。
(帰還後、故郷を訪ねた。) - 30歳の時、西国へ修行の旅に出た。
- その時、既に俳人仲間の住所録である「知友録」を作成し、西国行きに備えていた。
- 西国への旅の修行で、一茶の俳人としての実力の下地が出来た。
- 実父が死ぬと、遺産相続問題が発生し、継母と弟との間で骨肉の争いが生じた。
それらのエピソードは、一茶の代表作のひとつ「父の終焉日記」で語られている。 - 江戸では、知人や俳人関係の家を間借りしたりして生活していたため、諸事情で間借りできなくなると、他の家に間借りするなど、江戸近郊を点々としていた。
- 一茶は、江戸に住みながら、各地への俳諧行脚で生計を立てていた。
- 一茶が俳人として売れ出したのは、文化8年(1811年)ごろ。
(この時、葛飾派とは疎遠になっており、他の派閥にも属さない独立した俳人となっていた。) - 遺産相続問題が解決すると、故郷に落ち着いた。
- 故郷がある北信濃で、自身の派閥「一茶社中」が成熟して完成。
- 一茶は歯が悪く、49歳の時には歯を全部失っていた。
- 52歳で初婚。
- 初婚相手の菊との間に子供を4人もうけるが、4人とも病死している。
(菊も痛風で病死している。) - 58歳で中風にかかり、足に僅かな障害が残る。
- 二度目の結婚(再婚)は失敗に終わり、約三か月で離婚となった。
(新婚であるにも関わらず、一茶は俳句の仕事で家に帰らなかったため。) - 62歳で中風が再発し、言語障害が残った。
- 65歳で三度目の結婚(再再婚)。
- 故郷の柏原で大火事が発生。
家を失うが、土蔵が焼け残ったため、土蔵で暮らす。 - 晩年は、怒りっぽくなっていた。
- その後も俳諧師匠としての巡回指導を行っていた。
- 文政10年11月19日(1828年1月5日)に死去。
享年65歳。 - 三人目の妻「やを」は、一茶の娘を身ごもっており、一茶の死後も小林家の存続は果たされた。
参考:Wikipedia
こんなところですね。
子供の頃に教科書で学んだ小林一茶については、何の感傷もありませんでしたが、大人になった今では、とても悲しい人生を送った人だということがよくわかります。
果たして、現代の人たちが小林一茶と同じ人生を送ったとしたら、耐えられるでしょうか?
私は多分、耐えられないと思います。
しかしながら、そういう不幸で哀しい境遇を「俳句」という形で自己表現できたことは、小林一茶の高い才能を表していると思います。
こういう俳句を読むと、自分の人生で、ちょっとくらい失敗したからと言って落ち込んでいる自分が恥ずかしくなり、「もうちょっと、頑張ってみるか」と思えるようになります。
皆さんも、辛い時は、小林一茶の俳句を読んでみてはいかがでしょうか?
まずは、一茶忌をきっかけにしてみるといいと思いますよ?
では、今回はこの辺で。
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