世界で初めて国王に制限を加えた憲章
のこと。
憲章とは、「極めて重要で根本的な決まり事」を文書化したもの。
マグナ・カルタは、1215年6月15日に制定された。
かつて、マグナ・カルタより前の各国の法律や憲法では、
「国王は法に縛られない別格の上の存在」
として扱われてきた。
そんな、神の次に偉いような立場の国王に、初めて法的制限が設けられたのがマグナ・カルタである。
「王といえども、法※の下にあって、法を守る義務があり、権利を制限される」
といった感じの内容が、明確に文書化されている。
(※コモン・ローのこと。イギリス古来からの慣習や慣行を尊重する英国人共通の法)
また、国王の制限だけでなく、
ロンドンなどの都市の交易の自由化や、関税の自由決定権、イングランドの民の自由・生命・財産を保証するような内容なども盛り込まれている。
そんなマグナ・カルタは、
現代における法治国家としての在り方や、立憲主義、保守主義、または自由主義の原型になった。
ちなみに、マグナ・カルタの制定者は、13世紀初頭のイングランド国王のジョン王。
(1167年12月24日生誕~1216年10月18日死没)
(在位期間は17年6か月半(1199年4月6日~死没まで))
制定者と言っても、当時のイングランドの貴族諸侯や庶民から強制されて、しぶしぶ認めたために制定者とされているだけであり、実際にマグナ・カルタの内容を作ったのは、ジョン王に反発した貴族たちである。
余談だが、ジョン王は、イングランド史上では無能かつ残虐で最悪な王として有名であり、彼以降のイギリス国王にジョンという名前の国王はいない。
(ジョンという名前の王子は大勢いるが…)
・マグナ・カルタは何語?
マグナ・カルタはラテン語。
つづりは、「 Magna Carta 」。
Magna=大きな Carta=憲章
つまり、マグナ・カルタで大憲章。
マグナ・カルタを英語に訳すと、
「 the Great Charter of the Liberties 」となる。
この英語を日本語に直訳すると、
「偉大なる自由の憲章」または「自由の大憲章」となる。
ちなみに、英語のCharterの意味には、
「憲章」の他に、「特別な許可」「勅許」「免許書」などの意味があり、よく聞く和製英語の「チャーター便」のチャーターと同じ意味である。
つまり、英語のCharterの語源は、
ラテン語のCartaであることは想像に容易い。
・マグナ・カルタが制定された経緯
マグナ・カルタが制定された歴史的経緯は以下のとおり。
1205年、ジョン王は、次のカンタベリー大司教の候補を選び出し、
大司教として認めてもらうため、
当時のローマ教皇のインノケンティウス3世(以後、教皇)の元へ行った。
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しかし、教皇はそれを認めず、
まったく別の者(ラングトン枢機卿)を大司教に任命した。
(教皇の権力を強めるため、教皇は自分の息のかかった者を任命した。つまり、出来レースw)
↓
ジョン王は怒り、イングランド国内で、
教皇の意見を支持する司教たちを追放し、教会領を没収した。
(教会領は、ローマ帝国教皇派の領地でもある。)
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その事実を知った教皇は、
1207年にイングランドを聖務停止にし、
更に1209年にジョン王を破門した。
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聖務停止されたことで、
イングランド国内では、洗礼、結婚、葬儀などの行事ができなくなり、国内は混乱した。
また、ジョン王が教会から破門されたことにより、
ジョン王は教会に属するキリスト教信者との交流ができなくなった。
(当時、ヨーロッパ諸国のほとんどがキリスト教国家だったので、破門の影響力は非常に大きい。)
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ジョン王は破門にも屈せずに、没収した教会領からの収入で軍備増強を図る。
(軍力を増強することで、イングランド単体でも十分やっていけると考えた。)
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その姿勢をローマ帝国への反逆とみなした教皇は、
1213年、当時のフランス王のフィリップ2世に命じて、
イングランド侵攻計画を練らせた。
この侵攻計画には、フランスだけでなく、イングランドの隣国である
アイルランドやウェールズ、さらには、ジョン王に不満がある
イングランド国内の諸侯たちも加わっていた。
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この不穏な侵攻計画に気付いたジョン王は、
自分に勝ち目がないことをいち早く理解し、
教皇に詫びを入れた。
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その際の詫びとは、
「イングランド王国そのものの献上」
であり、教皇の封建臣下となることで破門を解かれた。
(破門を解かれた際に、イングランド王国は教皇から「寄進」の形でジョン王に返還されている。)
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これによって、イングランドは事実上の教皇封建国家となったため、フィリップ2世らによるイングランド侵攻は取り消された。
しかしながら、イングランド自体は
危機を回避できたものの、ジョン王は、イングランドの貴族諸侯らからの信用を失い、後のイングランド内乱への一因になった。
(マグナ・カルタ制定への一因)
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しかし、逆に、教皇の権力の傘に入ることになったジョン王は、教皇の権力を利用し、かつて所有していたヨーロッパ大陸の領土を取り返すため、1214年に、フランスに攻め入ることを計画。
(1203年に、大陸領のほとんどを失っていたため。)
ローマ皇帝オットー4世とポルトガルの王族フェラン(フランドル伯)と協力して、皇帝連合軍を形成し、フランスを南北から挟み撃ちにする戦略だった。
最初は侵攻が成功し、ジョン王は、かつての所有領の一部(ポワチエ、アンジュー)を取り戻した。
しかし、ブーヴィーヌの会戦において、
フィリップ2世の戦略によって、数で勝る皇帝連合軍が返り討ちされ、ジョン王は全面撤退を余儀なくされた。
(占領した領土も全て放棄した。)
↓
イングランドに帰国したジョン王を待っていたのは、イングランド諸侯と庶民たちが結託した内乱だった。
度重なるジョン王の敗戦に、
イングランド貴族たちの不満が爆発したのである。
(勝手に戦を仕掛ける→敗北する→重税をかける→国力疲弊 の繰り返しだった。)
↓
ジョン王は軍力で弾圧して反乱を押さえつけようとした。
しかし、今までのジョン王のやり方に辟易としていた者が多かったため、ジョン王を見限る者が大量に出た。
↓
敗北が確定となり、諸侯らによる追放か処刑を待つばかりのジョン王だったが、幸運にも、国王の権力に制限を加えることを条件に和解することができた。
その際に制定されたのがマグナ・カルタである。
制定された場所は、イングランド南東部にある町「ラニーミード」。
1215年6月15日のことであった。
・破棄されたマグナ・カルタ
実は、マグナ・カルタは、
1215年6月15日の制定後、わずか数ヶ月で破棄されている。
破棄させたのは、
当時のローマ教皇であるインノケンティウス3世。
教皇いわく、
「イングランド国王は、神と教会以外の約束に縛られるものではない。」
ということだった。
マグナ・カルタを強引に認めさせられたジョン王は、教皇にうまく取り入って、マグナ・カルタを無効化させたのだった。
・マグナ・カルタの復活(再発行)
ジョン王の策略とローマ教皇インノケンティウス3世によって破棄されたマグナ・カルタは、ジョン王の反撃によって勃発した第一次バロン戦争時に再発行され、第一次バロン戦争は終結した。
(戦争勃発後すぐ、ジョン王は赤痢で死亡している。)
再発行したのは、ジョン王の息子のヘンリー3世の後見人の摂政たち。
特に、摂政の1人で、イングランドの騎士としても有名な、
ウィリアム・マーシャル(初代ペンブルック伯)も証人の1人としてマグナ・カルタにサインしている。
しかしながら、ヘンリー3世は、
その後の政治において、結果的にマグナ・カルタを守らなかった。
そのため、マグナ・カルタは何度も再発行(再確認)されている。
それら再発行の際に、マグナ・カルタの条文はいくつか修正されている。
しかし、時代の流れの前には修正すらも空しく、マグナ・カルタ自体があまり重視されなくなっていった。
廃止はされなかったものの、
中世では、マグナ・カルタはほとんど注目されることはなくなった。
再度、マグナ・カルタが注目されるようになるのは、
17世紀入ってからである。
ピューリタン革命(清教徒革命)を起こす理由として、
マグナ・カルタが採用されたことは歴史家の間では有名である。
・マグナ・カルタの原文構成
原文のマグナ・カルタは、ラテン語で書かれ、
前文+63ヶ条で構成されていた。
現代の立憲主義、保守主義、自由主義などに影響を与えたとされる、
重要な項目は以下の5ヶ条である。
第1条:教会は国王から自由
第12条:王の決定だけで戦争の資金名目で税金を集められない
第14条:国王の議会召集の条件
第38条:イングランドの民は自由であり、
国法か裁判によらなければ自由や生命、財産をおかされない
・現在残っているマグナ・カルタ
現在に残っているマグナ・カルタは、
1225年(ヘンリー3世の時代)に修正され、
1297年にエドワード1世によって再確認された、
新マグナ・カルタの一部である。
その前文と4つの条文が廃止されずに残っており、
イギリスの現行法令集に記載されている。
内容は以下のとおり。
- 前文:国王エドワード1世による確認
- 第1条:教会の自由
- 第9条:ロンドン市等の都市や港の自由
(原マグナ・カルタの第13条に相当) - 第29条:国法よらなければ、逮捕・拘禁・財産はく奪されない
(原マグナ・カルタの第39条と第40条に相当) - 第37条:戦争免除金(盾金)、自由と慣習の確認、聖職者および貴族の署名
(1225年(ヘンリー3世時)のマグナ・カルタの第37条と第38条に相当)
関連項目