人身御供(ひとみごくう)をわかりやすく言うと、
人間を生贄(いけにえ)にすること
または
生贄になった人
のことを言う。
(もちろん、生贄になった人は死ぬ。)
別名、人身供犠(じんしんくぎ or じんしんきょうぎ)とも言う。
英語のスケープゴート※(scapegoat)が最も意味が近い言葉となる。
(※「身代わり」「生贄」などの意味がある旧約聖書(ヘブライ聖書)由来の用語。)
“人身”とは人間(の肉体)を指し、御供とは“お供え物”を指す。
文字通り、人身御供とは、
人間の命を“お供え物”として体ごと差し出すのである。
差し出す相手は、
信仰する“神”や“自然現象”である。
また、人間を犠牲にするという意味で言うと、人身御供とは、
利益獲得または被害回避のために、ある人間を犠牲にすること
という、比喩的な意味にもなる。
この意味の場合は、犠牲になった人が直接殺されるワケではない。
大体は、責任をとらされて地方に追いやられたり、降格させられたり、組織や団体から追放されたりするという形になる。
つまり、犯罪や汚職等の身代わりにされるのである。
そういう意味では、
人身御供は、形を変えて現代でも存在していると言える。
余談だが、「じんしんごくう」という読み方をする人が稀にいるが、それは明らかな間違いである。
・人身御供の主な用法
「あいつ、上司の命令で仕方なくやったのに、クビになったのはあいつだけだってさ。」
「上司は減給だけだと。役員は知らんぷりさ。」
「そんな!それじゃあいつは人身御供ってことかよ!」
「そうだな、人身御供にされたんだな…」
など。
主に、犠牲者や生贄の比喩表現として使われる。
・人身御供が行われた背景
人身御供の行為は、主にアニミズム(自然のモノには霊が宿るという原始的信仰)に基づいた文化がある古代の地域で多く行われていたことが確認されている。
それらの地域では、
神への捧げものとして、
人間の命は最高の供物だと考えられていたらしい。
また、古代における人間は、現代のような自然に対抗できる住宅や施設等がなかったため、自然災害や食料不足による飢饉状態が続くと簡単に死んでしまう程度の生命体でしかなかった。
そのため、自然に対する根本的な恐怖が人間に植え付けられていたようだ。
(自然に対する恐怖や畏怖は、古代遺跡の壁画などに散見される。)
また、古代人の中には、自然災害=自然の飢え というイメージがあったらしく、大きな自然災害が起きる前に、人間の生贄を捧げることで自然の猛威を事前に防止しようと考えていたらしい。
つまり、最小限の犠牲でその他の人間の安全と安心を願ったのである。
それが、人身を捧げるという人身御供の風習になったと考えられている。
人身御供の特に顕著な例として、メキシコのアステカ文明がある。
かつてアステカ人たちは、太陽を神として崇拝し、自分たちを太陽の民と考えていた。
そして、神である太陽が十分な力を発揮するには人間の血の生贄が必要とも考えていた。
そのため、定期的かつ大多数の人間を殺し、人身御供にしていた。
恐るべきことに、アステカのアウィソトル王が即位した際には、約8万人もの人間がいけにえにされたと言われている。
ちなみに、人身御供にされるのは、主に奴隷や敵国の捕虜だった。
しかし、稀に“神意”という形で、アステカの民の中から選ばれることもあったようだ。
(要するに、“白羽の矢が立つ”ということ。)
選ばれた者は、とばっちりもいいとこである。
ちなみに、日本においては、
“人柱(ひとばしら)”が有名な古代の人身御供の例である。
古代日本においては、治水技術が根本的に無かったため、日本各地の河川は度々氾濫して洪水を引き起こしてきた。
その現象を、当時の人々は「水神(龍のようなもの)が生贄を求めて暴れている」と考えていた。
(このあたりは、世界の人身御供発祥の理由に共通する点である。)
そこで、水神を鎮めるために、人間を川に放り込んだり、橋が壊れないように人柱として橋の基礎や川辺に埋め込んだりしたらしい。
しかしながら、それらの人身御供は口伝によるものが多く、実際に人身御供が行われたかどうかは定かではないとされている。
ヤマタノオロチに生贄を捧げるなどの伝承も、自然災害に対する口伝が変化して描写されたものと考えられている。
関連項目
なし